失うもの消えゆくとき

前回書いた日記を見ると、新型コロナウイルスに怯えて過ごす生活が1か月以上も続いてた。とにかくなるべく家で過ごして、夫の免疫力があがるように、衛生を保てるように、すこしピリピリしながら暮らしてる。

きょうは朝から、志村けんの訃報。

子供の頃からテレビで観てた。ギャグもたくさん流行って、小学校でも散々やった。ガチャガチャでだいじょぶだぁのタイコも買ったし、家族でもふざけてマネしたし、高校生になってもアイーンをしてプリクラを撮った。

人工心肺をつないだことを知ったとき、すごく心配になって、新型コロナウイルスが「拡大中」ということに、現実味がわいた。もしものことがあったら嫌だと思ったし、こころのどこかでは復活を信じていた。そうでないイメージはわかなかった。

「同じように続いていく」と、どこかで思い込んでいることが、裏切られ続ける。当たり前でないことに気付いて、また夫とくっついて寝ることにした。

感染症にかかってしまえば、どんなに重症でも、重症なほど、大切な人に会えない。身内に看取られることも、からだにお別れを言ってもらうこともできない。肺炎になり声で言葉を発することが難しくなれば、いつでも伝えられたはずだったことも、伝えられない。

2017年と2018年に、祖父と父が続けて亡くなった。

祖父は床屋の帰り、玄関まで帰ってきて転倒してしまって、入院した。良くなって退院する日を待ってたけど叶わなかった。

入院中、ずっと側について、話し込んだ日があった。耳が遠いはずなのに、わたしの声がちゃんと聞こえてて、ずっと聞きたかったことを聞いたり、とにかく祖父とお話をするのが本当に楽しくて、おじいちゃん子だったわたしは、そのまま一緒にベッドに入って寝たいくらいだった。最後のような気がしてしまって、離れたくなくて、暗くなるまでずっと居た。祖父にとっては、どんな日だっただろう。

がんばってくれていたけど、脳梗塞をおこして集中治療室に入った。元気な素振りを見せてくれて、ちゃんと冗談も通じて、でも言葉がでなくなって、右手も動かなくて筆談もできなかった。

父は肺癌を患って、緩和ケア病棟に入っていた。それでもわたしはまだまだ残された時間はあると思っていた。これから父と過ごそうと、仕事を辞めることにして、最後の出勤日の通勤中、危篤の連絡がきた。

痛みとからだのつらさで、父はいつも混乱気味で、とっくに会話らしい会話ができることはほとんどなくなっていた。話がしたくてしたくて、何度も思い出したから、最後に交わした冗談はよくおぼえてる。下ネタだったけど。緩和ケア病棟に移れてからは麻薬で痛みを抑えてもらって、ずっと酸素を吸っていた。少し言葉はでるけど、朦朧としてた。

会社に連絡を入れて、病院に向かった。駆けつけたら父はわたしに気付いて、右手をあげた。苦しそうに何かを言おうとしてた。看護師さんはその様子にびっくりしてた。そんな余力があるとさえ思ってなかったみたいだった。

手を握って、言葉を聞こうとしたけど、わからなかった。でも「ありがとう」だと確信してた。わかりようもないし、自然にそう感じたんだから、信じたい。

一晩を乗り越えてくれて、翌日昼過ぎに、一度動物の世話に帰った夫が病室に戻って、わたしが「ゆっくりトイレに行ってくる」と部屋を出てすこししたら、容態が急変して亡くなった。夫が戻るのを待っていたのかなと思った。わたしがひとりで看取ることがないように、一晩頑張ってくれたのかなと思った。わたしが部屋を出たら緊張が途切れたのかな、夫はいつも父に理解を示してくれて、父は信頼して、安心して甘えていたから、そのときを選べたのだとしたら、選んだんだろうと感じた。

そんな経験もあり、年齢もあるのか、訃報をきいたとき、失った悲しみはもちろん感じるんだけど、それ以上にあたまを支配するのは、そのとき何を考えてたんだろうということ。どんな気持ちでそのときを迎えたのか。こわくなかったか、くやしくなかったか。心配してなかったか、後悔してないか。そういう思いが駆け巡る。

これが、けっこう堪える。ひとつひとつの訃報が、わたしのそのときにむけた歩みのようにのしかかる。そのできごとに向き合う節目を差し出してくる。

世界は、人生は、同じようには続いていかないらしい。あったはずのものはなくなるし、手に入るはずだったものは消えていく。もしもなにかを失ったとして、元に戻すことばかり考えるのも違うのかもしれない。本質はそういうものなのかもしれない。

もともと意味なんて持ってないと感じる。それは自由ってことでもある。すきなことを好きと言って、したいことをして、愛するものを愛して、ちゃんと伝えて、好きなきょうを過ごす。

心配ごと

心配ごとはあとをたたない。

この頃、いぬが夜中や早朝に起きてしまう。トイレ以外で用を足してしまう。薬を飲まない。

お水を飲んだらタテに抱いてゲップをさせてあげないと、水が逆流して鼻の構造に入り込んで溺れる。

咳をしだすと、なんとかしてとめてあげないと長引く。吠えると咳が出やすくなるから、リクエストにはこたえたいけど、何を望んでいるのかわからなかったり。

とにかく、眠っているとき以外は目が離せなくて、夜中や明け方に一通りのことに付き合うので、わたしもまた眠るのが簡単じゃなくて。

でも、いぬの安心しきった寝顔や、イビキとか、抱っこしたときのあたまの匂い嗅いだりしてると、一緒に歳をとってくれてることを、ほんとうに嬉しく思う。なんでもしてあげるよって思う。からだを預けてくれたときには、ピリピリしてしまう自分を許そうって気になる。

お世話を焼けるのって、幸せなんだろう。父をなくしたときも、そう感じた。

巷にはコロナウイルスが蔓延していて、東京都の検査数は問い合わせに対してかなり少なく、あちこちで感染源を追えない事例も増えてきた。

イタリアではすごい勢いで拡大して、重症化しやすいのか、致死率も高そうで。そのイタリアから、制限がかかる直前に、駆け込みでたくさんの人が帰ってきたそうで。

もし、イタリアに独自の変異を遂げたウイルスが蔓延していたとしたら、中には無自覚にそれを持ち帰るひともいるのかもしれない。渡航中にコロナウイルスについて、情報を集めてくれていればいいが、活動的な感染者がふつうの生活を始めてしまえばどうなるかな、とか。

最近ではいぬにも感染するとかいう話もでている。わたしは何がなんでも、この老犬のもとにウイルスを持ち帰りたくないって思う。

保育士さんの感染もみられる。症状がでないばっかりに、子供が媒介している可能性もある。そういうケースがあり得るのなら、夫の仕事はかなり危険なものと言える。ほんとうに心配で仕方がない。寝ていれば治るというのならいいけれど、一度かかってしまったら、完全に元どおりに治るものとも限らないという雰囲気がある。

とにかく、心配ごとだらけで、ついには何をしても楽しくないし、無気力。外にも出たくないし、したいことも何もない。夫は慣れない状況にかなりストレスをためていて、めったにないくらい不安定で。わたしも今は大した仕事は入ってきてないけど、この状況に仕事と疲労が重なれば詰む気がする。

今日はイライラしづらく、わりと精神状態は安定している。つまらない話だけど、振動マシンを足元に置いたのがいいのだと思う。血流は大事。鬱々としたら脚を動かせ、というのは、身をもって学んだこと。

あしたも、いぬを愛でて、夫を労わる。こころをきちんと座らせて、守ろう。

おもうきもち

今日、やっと開業届を書いた。今年から、個人事業主になることにした。

結婚して13年間、新しい苗字も書き慣れた。だいぶサラッと、カッコよく書けるようになった。

父のことを思い出す。父が生きていたときは、何年も、毎週のように父の暮らす施設や、入院している病院を訪れ、面会表に父の名前を書いた。書き慣れた旧姓。父が亡くなってから、ちっとも書かなくなった。

コロナウイルスのことでも、ふと、父からメールが届いたような気がするときがある。

元気にしていますか、コロナウイルスが流行しているようです、親父は元気にしています、人混みは避けて不要不急の外出は控え、マスク、うがい手洗いをして下さい

そして、そのあとに

のど飴をよろしくお願いします

そしてわたしはズッコケながらも、のど飴を入手して、洗濯物を担いで、父に会いに行く。あぁ、会いたいなぁ。心配されたい。変なことを言っているけど。とにかく、時折無性に、父の不在をさみしく思う。

洗面台で手洗いをするときの、ハンドソープのポンプは、父が最後に入った施設の近くのコンビニで、わたしが買ったもの。前の施設には備え付けられていたけど、新しい施設にはせっけんがなくて、メールで買ってくるように言われた。

部屋の洗面台に置いて帰って、その後、父が油性ペンで名前を書いたらしく。片手しか使えない上、ずっと抱えてきた痛みがピークに達していた。やっと書いたって感じの字で、胸がぎゅっとなった。名前を書いておかなくちゃいけないのは、当たり前なのに、どうして書いてあげることを思いつかなかったのかな。ごめんなさいって思った。

それが洗面台に置いてあれば、見るたびに何か思うけど、わたしはたぶん、美化もせずただふつうに、父を毎日、思い出したいのだと思う。

がんばってくれたことも、わたしもがんばったことも、そして、まったく至らなかったことも。なによりも、「これを使いたい」って思うくらい、どんな形であれ、思い出であれ、大切に思えるくらい父を大好きだってことを。

心配しているだろうから、わたしにメールを送れないこと、悲しく思わないように。パパおやじ、だいじょうぶよ。ちゃんと、気をつけるよ。